くるみDiary

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(感想)映画「ビー・ジーズ 栄光の軌跡」

「ビー・ジーズ 栄光の軌跡」はタイトル通り

ビージーズの足跡をたどる内容でイギリスで生まれでオーストラリアに引っ越してから、バンドマンだった父親がマネージャーとなり母親も協力し、長男のバリー、双子の弟ロビンとモーリスの3人で子供の頃から活動を行っていました。

その後、イギリスでデビューしてからは渡英わずか5ケ月で「ニューヨーク炭鉱の悲劇」がヒットし成功をおさめます。「マサチューセッツ」で初めて英国で1位になり、欧州公演ではどこへ行っても人だかりができるほどの人気でモーリス曰く

「この若さでロールスロイスを6台も所有していて、天狗になっていた」

との事。

それでバリーとロビンが常に衝突していて、ボーカルのパートはどちらも譲れないというような感じでで、2人は口もきかなくなってモーリスが仲立ちに入っているような状態でした。

バリー⇔モーリス⇔ロビン

といった感じでモーリスを介してバリーとロビンは連絡を取るようになり、直接口をきくこともなくなっていき、ロビンが脱退、3人とも結婚したりそれぞれ個人で活動するようになりますが、あまりうまくいかず再びビージーズとして活動する事になります。

この映画とは関係ないのですが、イギリスではヒットしなかった映画「小さな恋のメロディ」が日本では大ヒットして、ビージーズのサントラも売れたんですよね、この事が関係しているのかは知りませんが来日もしています。

ビージーズが日本で公演をしていた頃っておそらく低迷していた時期だったと思います。

ビージーズ復帰後は順調でしたが、バリーはこの頃クスリに依存し酒に溺れボロボロな状態だったと話しています、次第にファン離れが起きライブをしても空席が目立つようになります。税金を支払うためにクラブ巡業を始め、有名なところもありましたが過去の人が出演すると言われていたクラブでも歌ったり、モーリスは豪邸を手放したり1974年頃は低迷していた時期でもありました。

ディスコブームの幕開けとなる最初の頃にビージーズの名前は出さずに、ラジオ局にレコードを持って行き曲を流してもらったら、それが好評でその辺りから売れ始めるようになります。ファルセット唱法を取り入れたりマイアミでのレコーディングも功を奏したようです。

アーディスト名を伏せた理由はその頃ビージーズ株は下落していたので、出さない方が良いだろうとの判断でした。

1977年の「サタデー・ナイト・フィーバー」が世界的にヒットし大ブレイクを果たします。

これは本人達も予想もしていなかった出来事だったようです。

hanae7.hatenablog.com

この映画で私の大好きな「愛はきらめきの中に」(How Deep Your Love)のセッション音源が流れてきたのが嬉しかった、やっぱりこの曲は取り上げてほしいと思っていたので。

その頃、末弟のアンディもデビューしますがアイドル的な存在で、一時はビージーズをしのぐのではと言われたくらいの人気だったようです。私がアンディの歌で好きなのが「Our Love」でしっとりとした曲調でいいなと思います。

この映画を観るまで知らなかったのですが、1970年代後半になると過激な反ディスコ運動が行われるようになり、反ディスコから反ビージーズの状態に変わって行き、ディスコブームに陰りが見えたのも重なって、1980年代に入るとビージーズは売れなくなっていきますが、バーブラ・ストライサンドやセリーヌ・ディオンに楽曲を提供したりと音楽活動はずっと続けていました。

「サタデー・ナイト・フィーバー」の世界的なヒットにより、その反動も大きかったんだと思います。

以前バリー・ギブがインタビューで

「誰も僕たちに興味をもたなくなってしまった、あの時は寂しかったですね」

と言っていた記事を読んだ事があって、ものすごく売れた後の凋落ぶりは相当なものだったんだろうなと思いました。

アンディ、モーリス、ロビンが亡くなって存命しているのは長男のバリーのみ。

1999年に撮影されたロビンとモーリスがインタビューに答えていた映像は、昔、「ビージーズ特集」でテレビで放送されたものだと思います、見た記憶があります。

「ビー・ジーズ 栄光の軌跡」はエリック・クラプトンや当時の関係者のインタビュー、イギリス時代の映像もあり、あの頃メンバーが何を考えていたのかなど知る事ができて良かったです。

現在のバリーがインタビューに答えていたのを見て、若い頃ビージーズとして活動していた時代からずい分と時が経ってしまったんだなと思い、ちょっとウルっときてしまいました。

兄弟全員が生きていて高齢の3人がビージーズとして歌っている姿も見たかったなと思いました。