くるみDiary

昭和の少女漫画や日々感じた事を書いています!

ジュリーの不動の人気とターニングポイント「背中まで45分」

沢田研二さんは私が物心ついた頃はすでにスターだった人で、出す曲は常にヒットしとにかく別格という感じでした。

結婚してからも人気は落ちるどころか勢いはとどまることなく、「勝手にしやがれ」は世代関係なく誰もが知っている曲でもありました、その少し前に暴行事件とかありましたが、それでもダメージはあまりなかったと思います。

1980年代に入ってジャニーズとかの新しい男性アイドルが登場しても、ジュリーはやはりそれらの人達とは違ってやはり別格という感じでした。

そんな不動の人気を誇るジュリーでしたが1983年1月に発売した「背中まで45分」は売り上げが伸びませんでした。私はこの曲を初めて聞いた時「なんて退屈な曲なんだろう」と思ってチャンネル変えてしまった事があったんです。
作詞・作曲が井上陽水さんだったのですが、意外と売れなかったんですよね。

この記事を書くにあたって私はジュリーのシングルの売り上げを調べたのですが、1979年9月に「ロンリー・ウルフ」という曲を発売していて10万枚以下の売り上げだったという事を知りました。

というより「ロンリー・ウルフ」という曲が発売されていたなんて、いまの今まで知りませんでした。この次に発売したのが「TOKIO」でこれはヒットしています。私はジュリーのシングル曲が売れなくなったのは「背中まで45分」以降だと思っていたので、これは意外でした。

私はジュリーはもう大スターなので、演歌歌手みたいになだらかにその地位はゆるぎないものとなっていくんだろうなと思っていたのですが「背中まで45分」以降はヒット曲がなくなってしまい、突然何が起こっているんだろうと思いました。

当時、私生活の方でマスコミに取り上げられていましたが、私はその事とジュリーの曲が売れなくなったのは関係ないと思っています、売り上げはイマイチでしたが「灰とダイヤモンド」は良い曲だなと思いますし、紅白歌合戦で歌っていましたよね。

ジュリーの凋落は一気にきたというより、分かりやすかったと言ったほうがいいのかもしれませんが、NHK朝ドラ「はね駒」の松浪先生役で出演したのを見た時、やっぱりジュリーは素敵だなと思いました。
おりん(斉藤由貴)が階段の上に立っていた時、下にいた松浪先生が「降りてきなさい」っていうセリフと表情がとても良かったです、名シーンだと思う。

ある時からジュリーは体型とか見た目を気にしなくなったようで、それはそれでいいのではと思っています。
たとえ作家の林真理子から「カーネル・サンダースおじさんみたいになっている」と言われようが😅

もしジュリーが「背中まで45分」を歌っていなかったらどうなっていたのかなと思う事はあります、別の曲を歌っていたらヒット曲は続いていたのだろうか。

「背中まで45分」はターニングポイントだったように思います。